すべての教職員のみなさんに呼びかけます!

学校からすべての体罰・暴力をなくし、子どもたちのいのちと人権が何よりも尊重される学校をつくるために力を合わせましょう

全日本教職員組合(全教)・日本高等学校教職員組合(日高教)共同アピール

2013 年 2 月 16 日

大阪の市立高校での部活にかかわる体罰と生徒の自殺が明らかになりました。
学校は、子どもの人権が最も尊重され、大切にされる場でなければなりません。その中で、子どもたちは基本的人権を知り、自分の人権だけではなく、他人の人権をも守らなければならないことを学んでいきます。学校での体罰が生徒の命を奪う大きな要因となったことは痛恨の極みであり、心より哀悼の意を表するものです。
全教・日高教は、憲法と子どもの権利条約の精神に立脚した教育の実現を掲げ、体罰を許さない立場を貫いてきました。二度とこうした悲しい事態を起こさないために、もう一度教育の原点に立ち返り、体罰について語り合い、体罰のない学校づくりをすすめることをすべての教職員のみなさんに呼びかけます。

体罰は明確な暴力、深刻な基本的人権の侵害であり、決して許されない
体罰は暴力であり、憲法に保障された基本的人権の侵害です。日本国憲法制定後の議会で教育基本法などとともに制定された学校教育法は、その11条で体罰を明確に禁止しています。
子どもの権利条約も、「身体的若しくは精神的な暴力からその児童を保護するためすべての適当な立法上、行政上、社会上及び教育上の措置をとる」ことを明記しています。子どもの成長・発達を保障する教育に体罰は相容れないことは明確な到達点です。
体罰は明確な暴力、深刻な基本的人権の侵害であり、決して許されないことを、すべての出発点にすることが必要です。

体罰は子どもの成長を歪める
子どもはたくさんの失敗や間違いを繰り返しながら成長していきます。そこには、失敗や間違いをしても、優しく見守ってくれる大人や仲間の存在が不可欠です。いつたたかれたり、暴力を受けるかわからない中では、子どもの成長は歪んでいきます。
多くの体罰に関する調査・研究が、子ども期に大人から暴力をふるわれた経験が子どもの育ちに深刻な影響を与えていることを示しています。また、いくつかの調査研究が「体罰経験が体罰を再生産する可能性」について結論していることも重要です。
体罰は、それを受けた子どもの問題にとどまりません。体罰を目撃した多くの子どもは、助けられず暴力の前で何もできなかった無力感、自分もやられるかもしれないという恐怖感、恐怖感からくる過剰な自己抑制に苛まれることになります。自分自身をかけがえのない存在だと思えることが自分以外の人間も大切な存在であることに気づくことにつながります。そんな自己肯定感を育むことが阻害され、恐怖心は本来の子どもらしい行動を規制し、罰を逃れるために、マイナスの行動パターンを身につけてしまうことにもつながります。
子どもとの信頼関係を築き、ねばり強い対話と説得を通じて理解と納得を促すことによってしか、真の成長・発達はありません。

「競争と管理」の教育政策の中で
子どもの失敗や間違い、子どもの気持ちに寄り添いながらていねいに教育実践をすすめたいという思いは多くの教職員の共通のものです。しかし、実際の教育現場にはそれを許さない「競争と管理」の教育が押しつけられています。ゼロトレランス(寛容度ゼロ)の指導が強調され、子どもたちを追いつめています。
また、教職員評価と一体にすすめられる全国一斉学力テストや様々な成果主義の押しつけが競争の渦に教職員を巻き込んでいます。過労死を生む長時間過密労働の蔓延もあります。そんな中で、心ならずも、子どもたちを追い立てるような言葉を口にしている自分に気づくことがあるのではないでしょうか。「競争と管理」の教育政策のもとで、教育の自由は狭められ、「人格の完成」を目的とするはずの教育は、「人材の育成」のための教育へと歪められてきました。
これまで推し進められてきた「教育改革」路線を見直していくことが必要です。

子どもを見守り、援助することこそ
できないことや弱いところも含めて丸ごと無条件に信頼されている、愛されていると感じられる受容と安心の中でこそ子どもたちは伸びていきます。教育には、どの時代にも、どの地域でも通用し、すぐに効果があがるという方法はありません。あくまでも一人ひとりの子どもに寄り添って、子ども自らの自己変容による成長を見守り援助することこそ大切にされるべきです。どれだけ時間がかかっても、子どもの内面にまで届く指導こそが教師の専門性であり、教育の条理、成長・発達の原理にかなった教育です。父母・保護者、国民との信頼関係もその中で築かれていきます。

子どもの声を生かした参加と共同の学校づくりの中で
体罰のない学校をつくる上で、子どもの声を生かした、子ども参加の学校づくりが大切です。子どもを教育の主体として位置づけることを学校づくりの柱とし、児童会、生徒会などの活動はもちろん、授業においても、部活動においても、子どもの主体的な参加が大切にされなければなりません。
子どもの声を大切にし、父母・保護者や地域の人たちとの共同を大切にした学校づくりの中で、体罰についても率直に語り合うことが、体罰をなくす上で大きな力になります。体罰を受けた経験、体罰をした経験を隠さずに、また飾らずに語り合おうではありませんか。その中でこそ、基本的人権の尊重と学習権の保障の立場に立った学校や教育活動のあり方について合意を高めていくことができます。

体罰を許さない教育を
昨年夏に神戸で開催した「教育のつどい」など、様々な場で、悩みながらも子どもとともに成長する教職員の姿が報告されました。生徒の荒れに悩み、担任を続けることができないかもしれないと葛藤する時、生徒の「先生が担任と違ったら、俺、すぐ学校辞めるから」との言葉に気持ちを固めたベテラン教師。人と人のつながりを大事にするクラスづくりがしたいという青年教師は「赤ちゃんには『よしよし』と言うでしょう。
迷惑をかけてもそこにいるだけでいいんだとクラスの子どもたちに言っているんです」と語りました。ここには、体罰を許さず、子どもを愛し、教育の条理と信頼を土台にした民主教育が位置付いています。今、こうした実践の教訓に学び、豊かに発展させることが求められています。
すべての教職員のみなさん、子どもや教育のことを、真摯に、率直に語り合い、すべての体罰をなくし、子どもたちのいのちと人権が何よりも大切にされる学校をつくるために、力をあわせようではありませんか。

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